タイトル等
吉村昌子 展
会場
Oギャラリーeyes
会期
2024-05-27~2024-06-01
開催時間
11:00~19:00
土曜日17:00
概要
忘我の〈風景〉の行く末
風景とは、周囲をとりまく色や形や現象が、ある主体に「見ている」と認識(そして評価)されたとき、つまり、客体として切り離されたときに、その心に投影されたイメージである。そのように仮に考えたとき、風景にこだわって制作していると言う吉村の絵画は、実際のところ、風景ではないのかもしれない。そこには、吉村という主体が分かちがたく融けこんだまま、ある。
そもそも吉村の作品は風景に見えない。風景を認識する足がかりとなる水平線や地平線は明確には見いだせず、むしろそうした表現を避けてさえいるようだ。一方で、単純な色や構図の問題には収斂せず、「抽象画」というのも憚られる。青っぽかったり、黄色っぽかったり、ほんのり桃色がかったりする「色」はあるが、互いに境界をなくし、はっきりと名指すのが難しい。その「色」が構成するのは、明らかに「線」ではないが、「面」でも「点」でもなく、「斑」とも言い難い何かである。キャンヴァスに染み込み、その凹凸に引っかかるなどして在るそうした色の重なり合いから、空間や光の感覚が生まれている。それは、絵画的な奥行というより、もっと身体性をともなったものに思える。
作品名にたびたび登場する《sirode》や《otowa》といった地名が、吉村が慣れ親しみ、いまもときどき農作業にいそしむ場所であることは、この感覚が、画家の固有の身体が感受した土や植物、陽光や影の、具体的な反映であることをほのめかしている。実を言うと、初め面食らった独特の色彩も、「例えば、水田の泥水に反映する青空」と聞いて、合点がいく。
素描作品では、表情豊かな樹幹や節くれだった枝、ねじれ虫食いのある葉形の細密描写と、その場そのときの空気感や画家の身体性が同居している不思議に魅かれる。吉村の作品に向き合うときには、こうした素描と油彩画を往還して見ることで、その感受性にいっそう同期できるように思われる。
近作では、土地の固有性や画面の成り立ちへのこだわりから自由になり、霊感が下りてくる瞬間を画家自身が「忘我の状態」と呼ぶように、その主体は、自然と、画面と、混然一体となって、そこに在りながらも、霧散している。それが見ていて、どこか心地よい。
作品が客体として現実に存在する以上、このような制作は極めて稀有で困難なことのように思える。それは、客体としての「風景」の限界を超えていくのだろうか。その問いに向き合いながら、吉村の〈風景〉の行く末を見守りたい。
貴家映子(静岡県立美術館)
会場住所
〒530-0047
大阪府大阪市北区西天満4-10-18 石之ビル3F
交通案内
地下鉄 御堂筋線 / 京阪本線
「淀屋橋駅」下車 北改札口1出口、徒歩10分

JR 東西線
「北新地駅」下車 東改札口11-43出口、 徒歩8分
ホームページ
http://www2.osk.3web.ne.jp/~oeyes/
大阪府大阪市北区西天満4-10-18 石之ビル3F
Webcat plus 展覧会タイトル等から関連資料を連想検索