江戸時代中期に活躍した建部凌岱(たけべりょうたい)(一七一九~一七七四/号に凉袋(りょうたい)、吸露庵(きゅうろあん)、寒葉斎(かんようさい)、綾足(あやたり)など)の、本格的な展覧会を行います。
凌岱は、弘前藩(ひろさきはん)の家老喜多村家(かろうきたむらけ)の次男として江戸で生まれ、弘前で文武両道の教育を受けました。しかし、兄嫁との道ならぬ恋の噂により二〇歳で出奔(しゅっぽん)、出家して説教僧(せっきょうそう)となり後に還俗(げんぞく)、俳諧(はいかい)で身を立て、主に江戸と京都を拠点として各地を遊歴しました。ところが、片歌(かたうた)の唱道者として開眼した途端、俳諧をあっさりと捨ててしまいます。歌人、随筆家、読本(よみほん)作家、国学者としても活躍し、有り余る才能を縦横無尽に発揮した凌岱。『続近世畸人伝(ぞくきんせいきじんでん)』(一七九八年刊)において「大胆で勇気があり、抜群の才能を持ち、世を弄んで終生を遊びのように考えた、生涯酔っているのか醒めているのか計り知れない人」などと評されています。
俳諧で意気投合した彭城百川(さかきひゃくせん)に影響を受け、凌岱は画事にも打ち込みます。百川などから聞く長崎の話は大変魅力的だったのでしょう。江戸の絵師の先駆けとして寛延三年(一七五〇)に長崎へ遊学しました。唐通事(とうつうじ)の熊斐(ゆうひ)や唐絵目利(からえめきき)の石崎元徳(いしざきげんとく)らに色鮮やかで写実的な花鳥画を学び、宝暦四年(一七五四)に再訪した折には、山水画の名手である中国清代の絵師・費寒源(ひかんげん)に師事します。これらを通して、中国から舶来した最新の様式をも習得し、独自の画風を確立しました。『寒葉斎画譜(かんようさいがふ)』『建氏画苑(けんしがえん)』といった画譜の刊行は、その成果と言えるでしょう。粗く大胆な筆遣いの作風で知られた凌岱の作品の中でも、豊富な海の魚介を描いた「海錯図(かいさくず)」と呼ばれる作品群からは、ユーモア溢れる一面も窺えます。
本展を通じて、画業を中心とした凌岱の多彩な活動をご堪能いただければ幸いです。