日本の絵画は古来中国や朝鮮からの影響を受けながら歴史を刻んできました。「唐絵(からえ)」や「漢画(かんが)」という呼称はまさに中国風の絵ということでした。一方、平安時代に国風文化が盛んになると、文学に呼応した新しい絵画テーマを王朝風の雅な色彩によって表現する「大和絵」が生まれます。このように日本絵画に大きな二つの流れができると、渡来人ではない日本の絵師たちが活躍するようになります。その後、鎌倉時代に武家政権となり中国から禅宗が移入されると、禅寺には修行の指標となる祖師たちを描く画僧が誕生し、やがて絵師となって専門的な仕事をするようになりました。京都五山の相国寺を中心とした室町将軍家の文化サロンでは、僧籍にありながら御用絵師をつとめる如拙や周文、宗湛といった水墨画の担い手が生まれます。彼らの描く絵は、中国南宋時代の画院を中心とする水墨画を範としていたため「漢画」とも呼称されました。その流れを汲む雪舟は日本一有名な水墨画家として知られています。さらには狩野正信・元信が出て「狩野派」を誕生させました。「狩野派」は、安定した絵画を提供するために流派の画体を確立し、発注者の望みに応える「筆様制作」もこなします。そして将軍や有力寺院、大名や商人、さらには市井にまで支持者を増やし、幕末までその血縁を中心とした巨大画壇を維持したのです。一方、禁裏御用絵師(絵所預)としては「土佐派」や「住吉派」が「大和絵」の系脈を保ちしっかりと御用をつとめていました。
江戸時代後期の 18世紀になると、「狩野派」の絵に対する不満が高まり、中国明清時代の版本類が流入してきたことにより、「南宗画」が広く伝わりました。その受容期の画家たちの活動を経て、文人たちも好み、庶民にもわかりやすいものとして「南宗画」を日本風に大成した人物が上方の池大雅と与謝蕪村でした。それはやがて江戸へも伝わり、すでに流行していた狩野派以外の様々な流派と共に大いにもてはやされ、江戸の絵画をより豊かなものにしました。その「南宗画」が後に「南画」と呼称されるようになり、「南画」は日本絵画の一つのジャンルとして展開していきます。しかし明治時代になると、今までの日本の絵画規範は中国から西洋へと大きな転換を強いられることになりました。「南画」界は、「日本美術院」など新しい「日本画」創造を目指す「新派」に対抗し、伝統的絵画を維持する「旧派」の中心として明治・大正・昭和という各時代に合わせた「新しい南画」への模索を続けました。
本展では、幕末期の谷文晁を中心とする本県出身の高久靄厓らによる「関東南画」に始まり、次代の田﨑草雲、その高弟小室翠雲らの「南画」継承を経て、栃木所縁の南画家たちがどのように自らの「南画」風を展開させていったのかを162点の作品により概観します。