出石焼は、江戸時代後期の天明4年(1784)、但馬国出石郡細見村(現豊岡市)において、出石の豪商、伊豆屋弥左衛門が土焼(陶器)窯を開いたことが始まりとされ、寛政5年(1793)には、肥前平戸(長崎県)の陶工によって石焼(磁器)の焼成が成功したといわれています。寛政11年(1799)から、出石藩による窯の経営が行われ、天保年間(1830~44)には、藩の窯業奨励政策によって、城下の商人が出資した民間の窯場が相次いで操業するようになり、染付を中心に白磁や色絵などの生産が行われ、最盛期を迎えました。
幕末から明治の混乱期に多くの窯場が閉じられましたが、明治9年(1876)、士族の授産と出石焼の改良および発展を目指して、盈進社が設立されました。また、明治32年(1899)には、素地の改良や色絵の具、銅版転写による技術改革を行った出石陶磁器試験所が開設されるなど、高い技術力と進取の気風によって業績を伸ばし、名声を高めました。しかし、いずれも、一般の需要を超えた精緻で細密な技巧の高級品の生産に偏ったことや、不況による資金難などにより、約10年で廃窯となりました。
“雪よりも白い”と表現される白磁が生産の主流を占める出石焼は、江戸時代後期に創業した兵庫県内の他の窯業地が廃窯していく中で、さまざまな困難を乗り越え、現在もやきものづくりが続けられています。そこには、万国博覧会に出品された精緻な細工の盈進社の白磁や、それまでの淡く青みがかっていた素地を改良し、技巧を凝らした出石陶磁器試験所などの白磁をつくりあげた優秀な指導者と、それらを受け継いだ陶工らの高い技術力や瀟洒な芸術性が垣間見られます。
この展覧会では、当館および各地の博物館・美術館、個人が所蔵されている出石焼に加え、窯跡から採集された陶片や、図案などの絵画資料にも焦点をあて、その始まりから現在へと続く軌跡をたどっていきます。