現在、私の陶制作(Shifting Moment シリーズ)は、両手で捻られた小さな粘土の塊の発見から始まった。ただ粘土をぎゅうっと捻じたというだけの、つまり手の跡が深々と残されていただけのかたちなのだが、それは衝撃的とも言えるほど強い印象を私にあたえた。
それは造形物というのではない。さりとて、決して偶然の産物というのでもない。明確な意図は感じられないものの、その粘土には形を変えようとした確かな私の行為が、ありありと残されていた。それには意図なき表出とでもいうべきものが認められた。その小さな粘土の塊には、粘土を捻じた手の動き、そしてそれに反応して現れた土の生き生きしい表情(ひだや亀裂)が相まってかたちになっていた。それからはほとんど人工と自然の区別さえ絶した境域が開かれているように感じた。
自然であることがそのまま表現であるような不思議なもの。それを言い止める名辞を私はいまだ手にしてない。
それとの出会いは、私が求めていく陶造形のあり方を知覚するようになったきっかけであった。
どのような万物でも生まれる前まで自分自身を内包していた対象がある。その対象は物を生み出した後でも内包していた形跡を姿に残す。それが「かわ」である。
新たな物を生み出すために自壊した対象…。その「かわ」の姿はあまりにも荒く歪んでいるため、破綻や崩壊のような印象さえ与える。
しかしその「かわ」の姿へと至るまでの過程も含め、単に見苦しいと言えるだろうか。
私はそれに美しさを感じる。