1910(明治43)年、パリから帰国して間もない高村光太郎が発表した批評、芸術家の内面の表現の絶対的価値を主張する「緑色の太陽」は、同世代及び若い世代に熱狂的に迎えられました。洋画家を目指していた長沼智恵子、文学を志していた佐藤春夫もその芸術と生き方に深く共鳴します。
長沼智恵子は光太郎と結婚し、後に精神の病に倒れますが、二人の生活から今日にも読み継がれる名詩集「智恵子抄」が生まれました。
若き日の佐藤春夫は光太郎の絵画の頒布会に一番に応じ、生涯に渡る深い敬意を抱きます。終戦後岩手の山小屋に籠もっていた光太郎を十和田湖畔の彫像制作に向かわせる手紙を書いたのは春夫でした。光太郎は東京に戻り、故中西利雄のアトリエで智恵子の面影を宿すその裸婦像を完成させた後亡くなります。光太郎の没後、春夫は「小説高村光太郎像」、「小説智恵子抄」を著して二人の生涯を日本文学の中にしるしました。
近代日本の芸術家の象徴的な存在とも言える高村光太郎、智恵子夫妻と文豪佐藤春夫との交流から生まれた作品の数々を紹介します。