今から100年前の明治38年(1905)久原房之助によって日立鉱山が開業され、5年後の明治43年には日立製作所が小平浪平によって創業されます。このときを境に茨城県北部の農山漁村であったこの地域は急速に鉱工業都市に変貌していきます。
昭和の戦時下には人口において水戸市をしのいで県内第1の都市となり、茨城県で最大の鉱工業集積地となります。
太平洋戦争下、「軍需都市」となり、アメリカ軍の空襲を受け、大きな多くの人命を失い、まちは廃虚と化しました。
日立市が戦災の痛手からたちなおるのは昭和25年(1950)以降のことです。戦災復興都市計画が着手され、産業活動も軌道にのります。
昭和35年に始まる高度成長政策によって日立市の産業も順調に発展し、人々の暮しも豊かさをまし、行政も市民福祉に力をそそぎます。この時期の日立市の標語が「のびゆく日立」でした。
一方で昭和38年にはじまる貿易の自由化は昭和56年の日立鉱山の閉山をもたらし、昭和60年の円高への誘導は輸出産業である製造業に影響をおよぼし、日立市の産業構造を変えつつありました。昭和45年以降、人口の伸びはとどこうりはじめ、51年びは水戸市に第1位の座をゆづります。
展示する100点あまりの写真は、明治38年の日立鉱山開業からはじまり昭和45年前後までとしました。写真はまちと市民の動きのすべてを網羅できていませんが、写真にしか表れないおおくの事象は、私たちの歴史の認識を深く広いものにしてくれています。
写真は私たちに静かに語りかけています。それらに耳をかたむけ、現代の日立市をとらえかえしてみることはできるのではないでしょうか。本展がみなさんにとってそうした機会となることを願うものです。