タイトル等
水野朝
会場
名古屋画廊
会期
2021-11-05~2021-11-20
休催日
日祝休廊
開催時間
11:00a.m.~6:00p.m.
(土曜12:00p.m.ー5:00p.m.)
概要
水野朝―童心の絵心をつらぬく 中山真一
無邪気な童心にたちまち帰らせてくれるかのような楽しい画面だ。気持ちがウキウキ、心もなごむ。絵に花が咲いたような。じっさいアマリリスの花も描かれている。左下に描かれているのは葉っぱだとか。大画面にしても顔をおおきく描きすぎて、下辺が少々つまることに。それにしても、めでたいめでたい。この花嫁は倖(しあわ)せになるにきまってる。モデルは母方のいとこ。モノクロの写真から描いたという。でも、顔はちゃっかり自画像だ。いずれにせよ、とても満16歳(高2)が描いたものとは思えない。
この作品《花と花よめちゃん》(1962年)の作者である水野朝は、1945年(昭和20年)に名古屋市で生まれた小児マヒで5歳まではひとりで立つことができなかった。ただ、画才は早くから発揮する。小学校にあがると、はや1年生のとき担任教師が母親に「画家に育てたらどうか」と話した。画塾にもかよい、「朱色をひとつ使うと絵が生きる」とならう。
中学2年生の春、友人のさそいでたまたま訪れた日本画教育に、講師の友人であった日本画家・中村正義が偶然あらわれる。水野の描くところをじっと見ていた。水野の絵は中学生といってもへんに大人びたところがなく、むしろ小学校低学年のように見えたか。いずれにせよ中村の目にはずいぶん新鮮に映ったようだ。後日、ひとを介してアトリエに来るようにとの伝言がくる。当時の中村は日展(日本最大の公募美術展)の寵児(ちょうじ)にして反逆児というスター的な存在。行かないという選択肢はなかった。
アトリエに母と行ってみると、中村は「見るな、見せるな、聞くな」という驚くべき教えを簡潔に述べる。ひとの絵を見なくてよい、自分の絵をひとに見せる必要もない、ひとのする絵の話は聞かなくてよい、と真顔であった。のちには高校に進学するな、結婚するなとも。水野は面食らいながらも、やがてその言に従おうとしていく。月1回、スケッチブックを持って市内にある中村のアトリエにかよった。中村は、スケッチブックをゆっくりとめくりながらひと言も発しない。指導らしい指導はなかった。それでも、弟子をとらないはずの中村に、唯一の弟子が誕生することとなる。むしろ中村のほうが水野の作品を見ていつもみずからの創作でなにか感化や霊感をうけていたかもしれない。1年がたち中村が東京に移住すると、こんどは年に1回、やはりスケッチブックをたずさえて上京した。
水野にはもともと天邪鬼(あまのじゃく)なところがあったという。中村の教えが、かえって性分にあっているかもしれなかった。それにしても高校くらいは。とくに両親がそう思い、しかもいじめにあうことがないようにとの配慮から、母親が家庭科教員をつとめる公立高校にかようこととする。ちなみに、苦学して弁護士のち僧侶となった父にもまして、日本刺繍(ししゅう)をたしなみ水野の幼少期に絵本をたくさん与えてくれた母の影響を強くうけているという。
中学や高校時代、幼い子どもが描いたような色彩ゆたかで天真爛漫(てんしんらんまん)な作品は、いくつもの地元公募展でおとなにまじって入選したり受賞したりするようになっていた。そうなってくると、ついには公募展に水野朝ふうの作品が散見されてくることに。そんな様子に師の中村は「みんな朝ちゃんに影響をうけて、朝ちゃんの絵が目立たなくなってしまったね」と笑った。展覧会場を訪れた鑑賞者たちは、一群をなす同傾向の作風がまさか中学生だか高校生だかがまきおこしたものとは思わなかったにちがいない。油彩画も描いてみたものの、日本画のほうが面白く感ぜられた。絵の具に使う顔料も、混ぜる膠(にかわ)の作り方や濃さによって、着彩後に割れやすかったり、定着しにくかったり、繊細に感じた。
1962年(昭和37年)、毎日新聞社主催の第5回現代日本美術展に本作品《花と花よめちゃん》が入選する。全国の気鋭の画家たちがしのぎをけずる同展に、あっさりと高校2年生が入選するのであった。地元でおおきなニュースとなっていたはずだ。はずだ、というのは本人が記事を見ていないから。当然、スクラップブックもつくらない。中村の教え「聞くな」を肩ひじはらずに実践するのであった。しかも中村は、もう公募展には出品するなという。以後それも守った。
「この作品は中村先生の話題作《舞子(黒い舞妓=まいこ)》(1959年)が土台になっています。花嫁ひとりの写真に、幸福のイメージがふくらみました。親指姫という感じかな。写真に花はなかったのですが、自分で思いつき描き入れました。実際には1年前の高校1年生のときに描いたかもしれません。自分は本当になにも考えずに描いているんです。空間があいているから花や葉っぱを描きいれたというように。おそらく一日で描いたと思います。男性の画家ならみな建築的というか理屈で絵を描いていく面があると思うのですが、私にはまったくそういうところがありません。そんな調子で今までに5万点くらい描いてきました。そのうち5千点が売れたようです。高校を卒業すると家事手伝いのような立場に。やがて23歳のとき中村先生の紹介で東京の画廊がつき、作品をどんどん買ってもらえ、お給料のようにして収入を得ました。こんにちまで絵の収入と亡き母の年金、多くのひとたちの手助けで描いてくることができたのです。」
1977年(昭和52年)、水野が32歳のおり中村が亡くなる。それでも、いつまでも師の教えは自然体で守りとおしてきた。ひとり絵を描くたのしみ。ただそれだけでよかった。75歳となった今も中学時代と画風はあまり変わっていない。中村が水野の絵に見てとった新鮮さも、まったく変わるところがない。画集を編纂(へんさん)するおりでも、現代日本美術展の入選記事を図書館で調べてみようとも思わなかった。だから記事は今も見ていない。中村はどんな後進にも同じようなことを言って指導をしていた。だが、水野以外の画学生たちは、画壇の、あるいは世間一般の常識にとらわれて、だれもついていくことができなかったであろう。水野が中村の弟子をひとり自称できる所以(ゆえん)でもある。(敬称略)
『日本経済新聞』デジタル版、連載「青春のギャラリー」(2020年12月11日)より転載。
会場住所
〒460-0008
愛知県名古屋市中区栄1-12-10
交通案内
【公共機関で…】
地下鉄東山線または鶴舞線で伏見駅下車(名古屋駅から地下鉄東山線で一駅)地下鉄伏見駅6番出口(御園座口)より直進約100メートル

【お車で…】
広小路伏見交差点を南へ約100m直進し、三蔵(みつくら)交差点の南西のカド ※お車は西隣の秋月パークをご利用ください。
ホームページ
https://www.nagoyagallery.co.jp/
愛知県名古屋市中区栄1-12-10
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