1911年(明治44)3月、のちに革新的な日本画団体「国画創作協会」の創立にかかわり主要メンバーとなる5人が、京都市立絵画専門学校の第一期生として卒業する。小野竹橋(竹喬)、土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰、入江波光の俊英である。これに国展創立会員となった野長瀬晩花を加えた6名は、1928年(昭和3)に国展が解散するまでの約18年間、京都の日本画の可能性を多彩に拡げていった。画一的な様式に収斂することなく、それぞれが虹のごとく異色の花々を咲き誇らせた。
近代の市民は、明治初期の偏重した欧化主義から徐々に開放され、日清・日露戦争の幸運な勝利を経て大正期にいたると、コスモポリタンとしての日本人の自意識に芽生える。美術においても、創造者たちは世界に伍する芸術が形成できるという矜持を抱きはじめる。このいわば楽天的な勘違いが、国展創立という大胆な行為を、竹喬たちに決意させたといえる。
このたびの展覧会では、国展にかかわった画家たちを中心に、大正時代の京都に花開いた個性の花々の魅力を、新収蔵の作品を含めた約60点により紹介したい。
竹喬たちは新鮮な創造の前で、絶えず不安と焦燥にさいなまれていたであろう。それを突き抜けたところで生れたのが、国展の作品群であったと思われる。その足跡を改めてたどってみたい。