日本の歌壇で絶えず野にあって、日常歌に徹した清水比庵(1883-1975)さんは、自らの歌風を「悲しさを忍ばせる歌境」と語っています。同題のエッセイの中で「九十になつて歌が悲しくなつたといふものの、歌は元来悲しいものである。昔は男から女へ、或は女から男へ恋愛をささやく為に歌を作ったともいはれるやうに、歌は恋愛と同じやうに元来悲しいものである。と同時に、たまらなく嬉しいものなのである。その悲喜共存の理がわからないで、歌をただ悲しいものとばかりに取扱つては歌は味はへない。悲しいものであるから、却つて之を嬉しい方面から取扱つて悲しさを忍ばせるといふのが、小生の歌の詠み方である」としています。比庵さんはこの歌境を心の貧しさという言葉で表わし、「心の貧しきもの、悲しみのわかつてゐるものは、結局悲しいものでなく幸福なものである」とも述べています。寂然とした諦観から導かれるこの心情を、簡明な歌として詠み、大拙の書として記し、艶やかな絵として描きました。
比庵が彼方の目標としたのは、自らの歌心を率直に託すことのできる万葉歌の世界でした。今回の企画では、日常の素朴な写生により、「悲しさを忍ばせる歌境」をつぶささに伝え、いわば万葉の世界を造形化したといえる比庵ワールドを代表作50点によりたどります。