北山清太郎には終生の恩があります。--木村荘八
その頃、特筆すべきは「現代の美術」という美術雑誌を主宰していた北山清太郎氏で、われわれの仲間ではペエル、タンギイで通っていた。あらゆる意味から、この人ぐらい熱心に当時の美術界に尽力した人はいないであろう。--高村光太郎
大正初期、大きな転換期を迎えた日本の美術を、影ながら動かした知られざる人物がいます。和歌山市に生まれた北山清太郎(きたやませいたろう)(1888–1945)がその人です。
北山は、美術雑誌『現代の洋画』や『現代の美術』等を出版して西洋の美術を盛んに紹介するとともに、岸田劉生や木村荘八ら、若い洋画家たちの活動を、展覧会の開催やカタログの出版などを通して献身的に支えました。その篤い支援に感謝した画家たちは、北山をパリでファン・ゴッホら多くの若い画家たちを支援した、画材商のペール・タンギー(タンギー親爺)になぞらえて、「ペール北山」と呼びました。
今回の展覧会では、この北山の活動を手がかりに、大正期の日本を熱狂させた西洋美術と、それに影響を受けながら展開した近代日本の美術を同時に紹介することを試みます。当時の画家たちが、次々と流入する情報から西洋美術の何を学び取り、影響を受けながらもそれをどのように乗りこえ、自らの表現を作り上げるにいたったのか。大正という熱い時代の美術を、改めて検証します。
なお北山は、その後美術の世界からアニメーションの分野へ転身し、ちょうど100年前の1917(大正6)年に、初めてアニメーション作品を発表した日本人3人のひとりとなります。北山は、まさに「絵を動かす」人となったのです。