北大路魯山人(明治16年~昭和34年)が料理長となった「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」(東京・赤坂山王台、大正14年開寮)には京都を中心に各地から料理人が集まり、各界第一人者たちをもてなしていました。「食器は料理のきもの」であることを念頭に、北鎌倉・星岡窯(せいこうよう)でも作陶を本格化させ、自慢の器でダイナミックに料理を演出しました。
開寮から11年後、経営上の衝突から魯山人は星岡茶寮を追放され、以後星岡窯での作陶に専念するようになります。魯山人の作品に魅了された後援者も現れ、大量の注文によって、多くの職人を抱えた星岡窯の運営も軌道に乗りました。東京・紀尾井町の料亭「福田家」は、当時最も魯山人を支援した後援者の一つで、星岡窯で焼かれたさまざまな魯山人作品で料理が提供されました。
魯山人の生み出したものたちから、おもてなしの「極意」に触れていただければ幸いです。