タイトル等
太中ゆうき
「発端」
会場
児玉画廊 | 東京
会期
2016-08-27~2016-10-01
休催日
日・月・祝
開催時間
11時~19時
概要
児玉画廊では8月27日(土)より10月1日(土)まで、太中ゆうき個展「発端」を下記の通り開催する運びとなりました。児玉画廊では今回の個展に先立ち、ignore your perspective 34「風景の空間」において初紹介、本展覧会は太中にとって初の個展となります。太中の作品は具象の範疇でありながらも、その制作態度は一般的な具象絵画のそれとは様相が異なります。
太中は作品を制作するにあたって、空白のキャンバスを前にまずこの作品において取るべき行動を一つ決めます。それは例えば「棒を描いてそれを雨に見立てる」というようなもので、絵を描く上での青写真としてはあまりに漠然としています。しかし、何をなすべきかは明確(とりあえずは棒を描けば良い)となるので、それが制作上の行動原理として機能することによって絵画制作が始まっていくのです。太中の作品を見るにあたって注視すべき最大の要点は、作家が「何を描くか」ではなく、「どう描くか」を考え、その蓄積によって画面が導き出されていくというプロセスにあります。
例えば「三角州」(2015年制作)という作品があります。この作品は、鈍色の川あるいは海を思わせる背景の中に、黒く太い斜線が複数段にわたって互い違いに描かれ、その最上段から明るい水色の色彩が黒い線の導きに沿って上流から下流へと流れていくような描写になっています。そして画面の下方、砂地のようなベージュの色彩面の領域へ到達したところでまさに河川が三角州を形作るかのように、一筋の水色のラインが二股に分かれています。明快なタイトルと明瞭な画面構成から、自ずと「ああ、なるほど確かに三角州が描いてある」と即座に納得することできます。しかし、しばし画面に対峙し、ディテールを注視していくにつれて、単なる絵画でないことに気付くはずです。描いたのではなく実際に川が「流れた」のだと気付くのです。嵩高く塗られた黒い線はさながら堤防の役となり、それに流れを堰き止められつつ伝い落ちていった一振りの水色の絵の具が、分厚く塗り込められた三角形の頂で物理的に二筋の流れへと分かたれてなお、重力に従って流れ落ち、画面の端へと薄れつつ消えていく。画面から読み取られる様々な要素から逆算し、作品を構成していくまでの痕跡を遡っていくと、液状に薄められた水色の絵の具を上からさらりと筆で注し振るった作家の挙動までもが脳裏に浮かんでくることでしょう。
太中にとって、制作の「発端」となるある行為/行動が絵画の描写内容よりも優先的に存在している、という点は作品制作に求められる技術的、創造的な素養以上に、はっきりとした一線を自他の境界に引くものです。絵画の内容、構図、色彩、それらは行動の後に付いてくるのであって、太中において予定調和はあり得ません。何らかのアクションによって条件が与えられ、そこにある必要性を満たす要素を描き重ねていくことで連鎖的に別の条件が導き出され、そうして幾重にも行為を重ねていくのです。そしてその蓄積の結果として絵画の具体的な内容に関わる部分、つまり、構図やモチーフについての必然性がお膳立てされた状態になって初めて、作家はようやくその点について思案し始めることができる、ということなのです。
鑑賞者には、完成された状態だけがさも当然のごとく静かに提示され、紆余曲折を経てそこに至っている道筋を容易には露わにしません。画面の上澄みに見る美しさだけに満足していると看過してしまうような僅かな違和感、そこににふと気付いた瞬間、作品に対するそれまでの認識や評価に大転換が引き起こされるのです。一枚の絵画を挟んで対峙するかのように、作家にとっては制作の起点において、我々鑑賞する者にとっては絵の成り立ちを辿る謎解きの終点として、その絵の始まり=「発端」を互いに掘り当てねばならない両者の関係性が、ただ美しいだけではとても終わらせられない渇きのような緊張感を太中の作品に与えているように思われます。
イベント情報
オープニング: 8月27日(土) 午後6時より
ホームページ
http://www.kodamagallery.com/oonaka201608/index.html
会場住所
〒108-0072
東京都港区白金3-1-15
交通案内
地下鉄白金高輪駅③出口より徒歩10分 広尾駅①出口より徒歩15分
光林寺バス停より徒歩2分
ホームページ
http://www.kodamagallery.com/
東京都港区白金3-1-15
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