風景と物の因果律、偶然的な出合い。チャンスオペレーション。そうした部分を人間は見ているのだと思う。
―粟津潔「美術が野を走る」(『造形思考ノート』p112より)
粟津潔(1929-2009)は第二次世界大戦後、荒野と化した東京で映画と美術雑誌を教科書に、山手線車中や路傍の人々を写生し独学で絵を学びました。ポスター《海を返せ》で1955年日本宣伝美術会賞受賞を経て、デザイン、印刷技術によるイメージの複製と量産自体を表現として拡張、「私はすべての表現の分野に、その表現の境界を取り除くだけではなく、階級・分類・格差・芸術に現れた上昇と下降も、取り除いてしまいたいと決断する」と述べ、様々なジャンルを横断、実験的な表現に挑み続けました。粟津の作品は、ポスターやブックワーク、建築に表れ、町に拡がって行きました。1960年には「メタボリズム」に、大阪万博では、EXPOランド、日本館構想計画にも参加しています。私たちにもなじみ深い高速道路の標識のフォントデザインも粟津によるものです。
当館は、粟津デザイン室のご厚意により2006年から受贈を開始し、約2786件所蔵。2007年に開催の「荒野のグラフィズム」展では1750件が紹介されましたが、未発表作品や制作過程、実験的行為の手がかりとなる資料、メモなどが多数あり、現在も調査研究を続行中です。
今年からシリーズ「マクリヒロゲル」と題し、多角的な切り口で未発表作品を含め粟津の世界を紹介します。第一弾となる本展では、アーティストの浜田剛爾の主宰による<Performance>にて1977から79年に粟津が実践したパフォーマンスに着目。浜田は、後に、「アートは、社会的流儀や世界的大義に対して、超越・隔絶した存在であることが、アートが唯一誇っていいことだと思うんです。そのことが否定されたときには、戦う気持ちがあります。僕にとっては、そのこと全体がパフォーマンスと同義だからです」*1 と語ります。
本展はこの視座に立ち、既存のヒエラルキーを解体していった粟津潔の開拓精神を、今日様々な領域で活躍する表現者たちとともに、実践していきます。
*1 「Interview:08 浜田剛爾:偶然を取り込み、形のないものの力を信じて」
北川フラム『アートの地殻変動』、美術出版社、2013年、p.116