没後10年にあたる本年、若林奮(1936-2003)が東京芸術大学彫刻科に入学した1955年から没年の2003年までを、制作に打ち込んだアトリエの変遷とともにみていく。本展では若林が日々描き続けた1万点にも及ぶドローイングより約220点をとりあげ、また学生時代に作られた石彫小品、「マニキュア・テキスト(1963)」、「疑似エントモプター(1965)」、「Run and Rest(1996)」、その他未発表エスキースや関係資料を展示する。2005年<若林奮 くるみの樹 DRAWING 1999-2003>、2007年<若林奮 DAISY 1993-1998>、2010年<若林奮 Dog Field DRAWING 1980-1992>につづく、多摩美術大学若林奮研究会企画による第4回展。
<見せる>ことへのためらい 若林奮
以前、ある美術学生と話したとき、かれは、今自分には人に伝えたいこと、伝えなければならないことがたくさんあって、それは絵、彫刻、その類、音楽、映画、文章その他なんでもよい、すぐにやりたいのだといらだたしく、せきこんで話した。ぼくはそんなものかと思いながら、さらに、それほど人に伝えたいものをたくさん、今もっているのかと念をおすと、かれはふたたび、多くの言葉をつかってかれの使命を強調した。どんなことがあるのかと具体的に聞き出しはしなかったが、ぼくにはそれが納得できなかった。というのは、ぼく自身は考えてみると、それがごく少ししかないように思えるからである。どんなことでもしゃべるのなら、おそらく、無数にあるのだろうが、これは無用。これはいまさらいわなくても皆わかっていること。こんなことは恥ずかしいことなどを除いていけば、なにも残るものはない。それは、自分と仕事の量感をもあやしくしてしまう。せいぜい「風が吹いていた」とか、「この石は硬い」とかいう程度かもしれないし、そんなことはますます、人にいって聞かせるものでもないに違いない。(中略)ぼくには人に見せたりするものは出来ていないということがいえそうである。さらに、伝達の正確さは期待できないし、自分のものは人に見せるのは惜しいとも思うのである。自分がつくったものを人に見せるのは、そこになにかしら次の自分の手の届く範囲の大きさの変化の起点は期待しているのかもしれない。(中略) しかし、ぼくがもっとも注意をはらい、力を使うのは展示のとき以前の過程、すなわち、自分が他人と会わずに過ごせる期間である。そこには材料も、道具も、工作も、大きさも、重さもある。それらは別々にでなく、すべてに関連しながらである。
美術手帖1971年第344号 p140-142より抜粋