猪熊弦一郎(1902‐1993)の作品は、1955年の渡米後、具象から抽象に変化したと言われています。渡米して数年後には、具体的なものを指し示さない形を描いた絵画や、思うままに筆を走らせ、画面に絵の具がほとばしった絵画を制作し始めました。それまで日本で描いていた人物や猫といった姿が作品から消えたのです。「オブジェクティブなものを除けるのに成功」*することは、虚飾のないニューヨークに拠点を構えた猪熊にとって、素の自分で勝負し、純粋で強い絵を描くために必要なことでした。
しかし猪熊の作品は、このときに具象から抽象へと一方向に変化しただけではありません。渡米前から滞米中を含め晩年までの間、具象画と抽象画のあいだを行ったり来たりし、あるいは一つの作品のなかに二つの要素が同居したりしています。具象画を描いているころから人や動物などは画面を占める色のスペースと考えたり、晩年には顔も形の組み合わせであると考えた猪熊が、自分だけが生み出せる「新しい美」をもつ絵画を描こうとした結果、独自の歩みを進めることになりました。
本展では、1940年代後半から渡米までの作品を通して抽象へのめざめを検証し、さらに晩年までの作品を通覧することで、猪熊と抽象との関わり、具象、抽象の枠組みを超えるダイナミックさをもつ猪熊作品の魅力をご紹介します。
※「形のないものを描きたい 滞米二年で感じたこと」(談話)東京新聞、1957年8月13日