熊田千佳慕は幼少期から虫が大好きで, 戦後, 挿絵画家として生計を立てながらいつか『ファーブル昆虫記』の挿絵を描くことを念願していました。55才以降その願いが叶い, 70代を迎えた1981年と1983年には二度にわたりボローニャ国際絵本原画展に入選し注目を集めました。
千佳慕は虫の毛のフワフワした触感までも再現するほどの細密な表現を得意としましたが, その制作のために家の周囲で何時間も地面に腹ばいになって虫を観察しました。千佳慕は腹ばいになると草むらがジャングルに, 水たまりが湖に見えると語っています。そのように虫の視線で何十年も虫に向き合い続けた千佳慕は, いきいきとした虫の絵を描くだけではなく, 次第に自然と人間との在り方についても深く考えるようになりました。例えば「私は自然保護という言葉が大きらいだ。さんざん今まで自然を利用しすぎてきて, ここにきて自然を保護しようということは, 人間のエゴだと思う。自然保護なんかする資格はない。自然保護ではなく自然破壊を防衛するつとめがあるというべきではないか」と述べていますが, 人間のための視点にとらわれていないこの言葉には, 経験に基づく説得力があります。また害虫として嫌われる虫についても「命が生まれてきた根はみんな一緒。今は, もう, ゴキブリでも可愛くて仕方ない。(中略) どんな命も, 愛するからこそ美しいと思うんです」と命として尊ぶようになりました。98才で没するまで, 観察に基づいて虫を描くという一つのことを追求し続けた千佳慕の言葉は, 自然と人間との関係の本質的な在り方を考えさせるものとして今も私達の心に響きます。
この展覧会は, 虫や植物の描かれた絵画が好きな人, 植物や虫そのものが好きな人はもちろん, 「虫はどうも…」と感じている方にも是非ご覧いただきたいと思います。
なぜなら千佳慕の作品には, 人間のための視点にとらわれずに自然を見ることのできる独自の視点があり, 単に虫や植物をモチーフとして描いた作品という以上の魅力を備えているからです。また千佳慕の作品を見ることで, 生涯好きなことを追求し続けた人が, いかに豊かな人生を送ったか, ということも感じることができるでしょう。