慶応4年(1868)の戊辰戦争は、東軍である庄内藩の降伏謝罪をもって、その結末を告げました。庄内藩の戦後処分は新政府である西軍の西郷隆盛の配慮により大変ゆるやかなものでした。庄内藩の家老菅実秀らは、大きな人となりと高遠な精神に深く感じ尊敬するようになりました。
菅は敗戦後の庄内藩の復興などについても西郷に相談するなど親交を深めました。また、当時の藩主酒井忠篤は、明治3年10月藩士70名を率い、兵学修行のため鹿児島に赴き、翌年3月まで滞在し指導を受けました。その後も菅をはじめ幾人かの庄内藩士も鹿児島の西郷を訪ね、教えを受けました。
明治10年(1877)西郷は西南戦争で自刃しましたが、賊名を解かれたのは、それから12年後の憲法発布の日でした。庄内の人々もこの栄典を喜び、これを機に西郷の偉大さと真精神を後世に伝えるべきとして、西郷に親しく学んだ人たちが感銘を受けた一語一語を収録した『南洲翁遺訓』を刊行し、全国の有志の人々に頒布しました。
このような歴史的経過によって、鶴岡市と鹿児島市は現在兄弟都市の盟約を結び、今もなお交流を深めています。
この度、菅実秀没後100年記念展として二人の書を中心に展示します。